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東京高等裁判所 昭和60年(う)484号 判決 1985年6月20日

控訴人 被告人

被告人 鈴木正男

弁護人 門馬博

検察官 清澤義雄

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中六〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人門馬博提出の控訴趣意書(但し、第一の五の3に「李が以前に殺人を犯した者であり、」とある部分を除く。)並びに被告人提出の控訴趣意書及び同補充書に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一事実誤認の主張について

各所論は、要するに、被告人は、昭和五九年八月三一日午後六時ころ、本件事件現場を通りかかつたところ、李春登が側の五〇歳くらいの老人に因縁をつけていじめていたので、李を止めようとしたところ、「お前は関係ない、あつちへいけ。」と言つて、被告人の膝を数回蹴り上げたので、李の胸ぐらを掴んだところ、李も同時に被告人の胸ぐらを掴みながら立ち上がり、被告人の横腹を膝で二、三回蹴り上げたので、やむなく手拳で李の顔面を一回殴りつけたところ、李が前かがみになり、次いでガラスびんを右手に持つて殴りかかり、被告人の頭頂部及び前頭部を殴打し(その結果被告人は全治二週間を要する頭頂部挫傷、頭部挫創等の傷害を負つた。)、ガラスびんが割れたので、身の危険を感じた被告人は李を足をかけて投げ飛ばしたが、李が投げられても割れたガラスびんをはなさずに立ち上つて再び攻撃してくるようであつたので、被告人は手拳で数回李を殴りつけたところ李は倒れ、それでもなお割れたガラスびんをはなさなかつたので、再び攻撃を受けないように被告人は数回李を蹴とばしたのである、右の如く攻撃はすべて李からなされており、被告人はむしろこの攻撃を止めさせるため、また自己の生命、身体を守るために反撃したものであり、仮りに喧嘩であつても、喧嘩闘争においても正当防衛が成立する余地があり、当該行為が法律秩序に反するものかどうかによつて判断されるべきであるところ、被告人は、李の攻撃よりも常に程度態様において低い反撃しかしておらず、被告人の行為が法律秩序に反するとはいえないから、いずれにしても、被告人の本件行為は、正当防衛ないし過剰防衛にあたるか、仮りに、被告人が李を投げとばし、倒れた李にもはや攻撃の意思がなかつたとしても、被告人は李がガラスびんを持つて再び攻撃してくると誤信したのであるから、誤想防衛にあたる、したがつて、正当防衛若しくは過剰防衛又は誤想防衛の事実を認定しなかつた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。

そこで原審記録及び原審において取調べた証拠物を調査、検討すると、以下のとおりである。

原判決挙示の各証拠によると、被告人は、昭和五九年八月三一日の午後友人の部屋で飲酒雑談した後、夜勤の仕事を探すため、自転車に乗つて、横浜市中区寿町四丁目一四番一所在の寿町総合労働福祉会館前広場に出かけたが、仕事を見付けることができず、同会館建物前面の二階に通ずる階段付近を通つていると、以前にこの近くで労務者に乱暴をしていたのを見て顔を知つていた李春登が、酒に酔つて同所広場のコンクリート床面に敷いてあつた畳のようなものの上に座つたまま、その横に座つていた五〇歳位の年配の男と口論し、その男を足蹴りし、これに対して年配の男も李に向つて行こうとし、互いに争つているのを見て、李が弱い者いじめをしていると思つて同人に近寄り、「弱い者いじめばかりしているとしよつ引くぞ。」と文句を言つたところ、同人が被告人に対し「何だてめえ、関係ねえ。向うへ行け。」などと言つて被告人を「てめえ」呼ばわりしたのに立腹し、「てめえという言腐さはないだろう。この野郎、てめえ。」と言い返すと、李が、座つたままの姿勢で、同人の面前で中腰で立つている被告人の膝あたりを一回足蹴りした、これに憤慨した被告人は、「てめえやるのか。」と言いながら李の胸ぐらを掴んで引き立たせたところ、李が被告人の着衣を掴み膝で腹部を蹴つたので、ますます憤慨し被告人は李の顔面を手拳で一回殴打した、殴打された李は、その場にうつ伏せになつたが、すぐに側にあつたビールびんのような小びんを手に取つて、これで被告人の右前額部を一回殴打した、被告人は素早く李の右腕を巻き込んで背負い投げのような格好で李をコンクリート床面に投げつけ、床面に投げ倒された李が足を前方に投げ出し、上体だけを起こして座つているのに対して、同人の顔面や上半身をところかまわず手拳で数回殴打し、更に李がその場に倒れるや同人の顔面や胸部等の上半身を執拗に靴履きのまま数回激しく足蹴りしたり踏みつけるなどし、その結果、同人に加療一か月間を要する右頭部血腫、左第六、第七肋骨骨折、右眼強膜裂傷等の傷害を負わせた、この間李は何の抵抗もせず、防禦の姿勢さえとることができない状態にあつた、その時、たまたま被告人の右暴行を目撃していた通行人稲生末明と川口五郎の両名が、これ以上放置すると李の生命が危険であると思い、制止しようとして被告人に近寄つて行つたところ、被告人は、いきなり所携の催涙スプレーを右両名に向けて噴射し、右両名がその場でひるんだ隙に、付近に置いてあつた自転車に乗つて逃げようとした、以上の事実を認めることができる。

ところで、被告人は、原審公判廷において、李からのガラスびんによる攻撃について、被告人は李からガラスびんで頭頂部あたりを一回、続いて右前額部あたりを一回殴打され、右前額部を殴打されたときガラスびんが割れて額が切れた、李はなおも割れたガラスびんを握つたまま被告人を攻撃しようとするので、足をかけて李を投げ倒したが、それでもそのびんを持つて立ち上がつて来るので、李を殴打あるいは足蹴りしていると、人が近寄つて来たため、所携の催涙スプレーを噴射して、その場から自転車の置いてあるところに逃げて行つたところ、李がなおもそのびんを持つて被告人を追いかけて来た旨供述している。なるほど医師北浩之作成の診断書によると、被告人は頭頂部挫傷及び頭部挫創の傷害を負つていること、被告人が当日着用していた押収に係る紺色長袖シヤツ(当庁昭和六〇年押第一四九号の1)の後襟及び背中の部分に血痕様のものが付着していることなどに照らせば、被告人が頭部に二箇所の殴打を受け、出血したことを推認させる痕跡が認められる。しかし、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書では、被告人は、李からはガラスびんで右前頭部を一回殴ぐられたのみで、頭頂部を殴られたのは、被告人が自転車に乗つて逃げようとしたときで、後ろから追いかけて来た者からびんのような物で頭頂部を一回殴打されたと供述しており、李が割れたびんを持つて、被告人に攻撃をしようとしたり、自転車で逃げようとした被告人を追いかけて来たとは供述していないこと、証人稲生末明の原審公判廷における供述によれば、同人は、前記会館建物前広場で、被告人が、足を投げ出して座つたまま何の抵抗もしない李の顔面など上半身をところかまわず手拳で殴打し、更に、その場にあお向けに倒れた李の頭部など上半身をところかまわず足蹴りし、その暴行は、近所でよく見かける喧嘩とは違つて、無抵抗の相手に対する一方的で激しいものであつたこと、李はその場に倒れたままであつて、その場所から救急車に乗せられて病院に運ばれていることが認められ、被告人が李からガラスびんで二回も頭部を殴打されたとか、その後も李が割れたガラスびんを手に握り攻撃する姿勢を示していたとか、いわんや被告人を追いかけてきたとかという状況とは全く異なるのであつて、その旨の被告人の原審公判廷における供述は、他の証拠と明らかに矛盾するのみならず、その供述自体も不自然、不合理であつて、到底信用することはできない。

以上認定の事実によると、被告人に対する最初の李の暴行は、座つたままの姿勢で被告人の膝を一回足蹴りしたというもので、しかも被告人が弱いものいじめをするなと李に干渉したところ、李が被告人に対し関係ないから向へ行くように言つたことに端を発したものであつて、その原因や態様に照らせば、李の右暴行はその限りのもので、それ以上に発展する恐れはなかつたものと認められる。しかるに、被告人が憤激して、「てめえやるのか。」と言いながら、座つている李の胸ぐらを掴んで引き立たせ、李に喧嘩を挑んだため、李はこれに誘発されて被告人の腹部を膝蹴りする暴行に及び、被告人もこれに対して手拳で李の顔面を殴打し、李がガラスびんで被告人の右前額部を殴打するや、被告人が李をコンクリート床面に投げ倒し、以後一方的に同人に対し殴打、足蹴りなどの執拗な攻撃を加えたものであるが、本件の一連の経過に照らすと、被告人は、「てめえやるか。」と言つて座つている李の胸ぐらを掴んで同人を引き立たせた際、李がこれに挑発されて攻撃してくるであろうことを予期し、その機会を利用して、被告人自身も積極的に李に対して加害する意思で本件行為に及んだものであると認められるから、本件は、正当防衛における侵害の急迫性に欠けるというべきである。したがつて、被告人の本件行為は正当防衛に該当しないことはもちろんのこと過剰防衛にも該当しない。

また、所論は、被告人が李を投げとばし、倒れた李にもはや攻撃の意思がなかつたと仮定しても、被告人は李がガラスびんを持つて再び攻撃してくると誤信していたというが、李は被告人から投げとばされて、床面に倒されてからは、全く無抵抗な状態にあり、被告人の一方的な攻撃に終結していたことは、前記認定のとおりであつて、李が再度攻撃してくると誤想する余地は全くない。所論が前提とする事実は、専ら被告人の原審公判廷における供述によるものであるが、右供述が信用性のないものであることはすでに説示したとおりである。したがつて本件に誤想防衛の成立を認めることができない。

更に所論は、本件が喧嘩であつても、喧嘩闘争においても正当防衛が成立する余地があり、当該行為が法律秩序に反するものであるかどうかによつて判断されるべきであるというが、本件は、被告人が憤激のあまり、李に喧嘩を挑み、李から腹部を膝蹴りされたり、前額部をガラスびんで一回殴打されたとはいえ、全般的に見れば、終始被告人が優勢に立ち向かつているばかりか、李が床面に倒れ抵抗の気力を全く失なつてからは、一方的に完膚なきまでに李に加害を与えているのであつて、闘争行為全般からみても、被告人の行為は、明らかに法秩序に反し、防衛行為として許容する余地はないといわなければならない。

以上のとおりであつて、本件について、正当防衛若しくは過剰防衛又は誤想防衛を認めなかつた原判決に所論の事実誤認はない。論旨は理由がない。

第二量刑不当の主張について

弁護人は、昭和六〇年五月八日差出しの控訴趣意書中で量刑不当の主張をしているところ、被告人は、自ら差し出した控訴趣意書で事実誤認を主張するとともに、同月七日差出しの控訴趣意補充書中で「弁護人から刑訴法第三八一条(刑の量定不当)の主張がなされても、被告人は同意いたしません。従つて、弁護人から仮りにそのような主張がなされても、被告人の同意による趣意ではないから、却下して下さい。」との意思を表明している。ところで、弁護人は、第一回公判期日において、弁護人名義の控訴趣意書並びに被告人名義の控訴趣意書及び同補充書に基づいて控訴趣意を陳述し、被告人が右補充書で弁護人が控訴趣意として量刑不当を主張することに同意しないとの意思を表明しているが、弁護人としては、量刑不当の主張をすると陳述した。

そこで検討するに、原判決言渡後に控訴審で選任された弁護人が控訴趣意書を差し出すことができることは異論のないところであるが、この弁護人は、控訴申立人本人ではなく、被告人の控訴申立権を包括的に代理行使する権限を有するにとどまるのであつて、このことは、刑事訴訟法が控訴申立権者を法定し、しかも控訴の申立を被告人の意思にかからせていて、法定の申立権者といえども被告人の明示した意思に反してこれをすることができず、被告人は控訴を放棄することも取下をすることができることからも明らかであるところ、本来控訴の申立とその理由とは本質的には一体不可分の関係にあるものであり、控訴の理由(控訴趣意)は控訴申立と同時に主張されるべき筋合のものであるが、訴訟技術上その申立書の差出しとその理由書すなわち控訴趣意書の差出しを時期を異にして別々に行うことを許容しているにすぎないのであるから、控訴申立の理由書である控訴趣意書の差出しについても、弁護人に被告人から独立した固有の権限があると解すべきではなく、控訴申立と同様に、弁護人は被告人の控訴趣意書差出権を代理行使するものにほかならないのであつて、従つて、控訴審の弁護人は、被告人の意思に反した控訴趣意を差し出すことはできないものと解すべきである。

これを本件についてみるに、被告人は、前記のとおり弁護人が控訴趣意として量刑不当の控訴理由を主張することに同意しないとの意思をあらかじめ表明しているのであるから、弁護人の控訴趣意のうち量刑不当の主張は、被告人の意思に反するものであつて、不適法といわなければならない。従つて、所論の量刑不当の主張については判断しない。

よつて刑訴法三九六条により、本件控訴を棄却し、当審における未決勾留日数中六〇日を刑法二一条により原判決の刑に算入し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書によりその全部を被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石丸俊彦 裁判官 新矢悦二 裁判官 髙木貞一)

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